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2006年07月05日

楽しみ

人には楽しみがなければならない。
そう言うのは簡単だし、誰も異論はないだろうし、実際人は楽しみを実践しているあるいは実践しようとしているだろう。

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投稿者 shingo : 08:41 | コメント (0)

2005年06月21日

性善説・性悪説

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常々くだらないと思う言葉の一つ(二つ)がこの性善説・性悪説だ。ちなみにvodafoneの漢字変換では前者のみ表示される。

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投稿者 shingo : 10:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年04月11日

人の話を聞く

昨晩、実家に行って両親と話してきた。正確には両親の話を聞いてきた。相変わらず話すことが好きな両親である。
正直言って、話を聞くより話す方が楽しい。だからこそ、相手のことを思いやっているということを示したいなら、相手の話を聞きなさい、という結論になるのだ。相手にとって楽しい「話す」という行為をさせてあげることによって、相手を満足させるという気遣いだ。
両親は、まだそこらへんができないようだ。おそらくこれからもできないだろう。それはやむを得まい。それでも自分にとって掛け替えのない大切な両親だ。

教訓を引き出すならば、「他の人と会うときに、自分の話ばかりするのはやめよう。」ごくありふれた謂いだ。

投稿者 shingo : 08:13 | コメント (0)

2005年02月01日

HIDEO

HIDEOのカテゴリを追加。HIDEOとは小林秀雄だ。
ひと頃、なぜ彼の文章を、あれほど熱心に読んだのかは分からない。
彼のべらんめぇ口調の言葉は、しっかり自分の心にくさびを打ち込み、
その後も自分の人生の中で、偉そうな位置を占め続けてきた。

彼は言う、

人は、他人の言葉に従って考えることが多すぎる

と。

おめぇがまさに他人に対して影響を及ぼす言葉を発してるじゃねぇか!

でも、秀雄にはまり、秀雄の文章を読み続け、そして秀雄の叫びを聞いたように思えたことは本当によかった。
文は人なりという言葉を、おぼつかないなりにも初めて実感できたからだ。
文は人なりを体感できるということは、つまりその人を身近に感じることができるということだ。
身近に感じることができれば、そいつが何を言おうとどうでもよくなってくる。
つまり、親しいダチとじゃれあっているみたいな感覚になるのだ。
だから、俺が秀雄に頭を叩かれたとしてもどうってことない、そういうわけだ。

もちろん、俺の見ている秀雄像は俺の目に見えているものに過ぎない。
他の人はおそらく全く別の像を描いていることだろう。
人それぞれ、それこそが人間認識の出発点だ。

それでも、俺は彼が正直に告白してくれたことを忘れまい。
彼は、彼が心動かされたこと、憤りを感じたこと、疑問に思っていること、無力に感じていることを、正直に告白してくれた。
そして、彼の文章に懸命にしがみついているうちに、それをそのままに受け止めることができるようになった。
それだけで、俺は十分だ。俺は十分に幸せだ。

俺の横に彼がいてくれるとは思っちゃいない。でも、彼もこんなふうに感じたんだろうな、みたいに思い描くことで、俺の苦痛やむなしさが、少しばかりでも軽くなるように思えるだけで、俺は彼に出会えてよかったと思っている。

ありがとう。

投稿者 vespro : 10:57 | コメント (0)

2005年01月30日

説教くさい

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人生もそこそこ生きていると、物の見え方や物事の判断の仕方がある程度定まってくる。偉そうに言えばおれ流の一種だ。

若い時には、他人の考え方に影響され傷つけられてきた。今では、影響を受けないと言えばうそになるが、それでも自分を見失うことはほとんどなくなったと言えるだろう。
これを「頭が固くなった」と言うのかどうかは知らない。だが、若い頃のように自己否定を繰り返していた状態が幸福とはとても思えない。
ということは今は多少は生きやすい精神状態になっているということかもしれない。

そのようにある程度固まった自分の思考というものが存在すると、外部の事象に対して一々物差しを当てはめて判断する傾向にあるようだ。自己否定していた頃は、外部の事象に触れると喜怒哀楽に流されてしまっていたように思うが、今はそうではなく、「そのことはこういうことだ・・・」みたいに評価するのだ。
そのように、何が起きても平然と受け止めて評価する行為というのは、おそらく「説教くさい」と昔思っていた大人の姿なのだろう。どんな事象であれ、一言も二言も三言も延々と説明する、いや説教する、それが、「自分の物差しに当てはめて判断(批評)する」ということを実現化した行動なのだろうと今では理解できる。
理解できる、ということは、自分も説教くさい人間になる可能性があるということだ。

説教くさい人間になるメカニズムが理解できた以上、せめてそのような人間にはならずに済むように努力すべきだろう。

投稿者 vespro : 02:03 | コメント (0)

2005年01月26日

思考

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昔、どこかで「ヘーゲルは自分自身を小屋の中に置いて、外側からこの世界について考察していた」みたいな文章を読んだことがある。

と先日書いたが、あとになって考えてみると、むしろ、このような引用をしただけでヘーゲルを理解しているつもりだったことの方が問題だということに気づいた。

メタレベルの理解になるが、小林秀雄が「人は他人から聞いた思考に従って考えることがあまりにも多い」と書いていた。これは実にうなづけることが多い。文字通り、秀雄のこの言葉を自身が覚えていて、至る場面で適用しているということそれ自体が、ある意味この言葉の真実性を担保していると言えるかもしれない。

上記のヘーゲルを評した言葉(これまた秀雄なのだが)について言えば、ヘーゲルという人がどのように考え、表現し、生きたかについて、十分とは言えない程度の認識しかもたない状態で、上記の言葉だけを聞いてすべて分かったつもりになっているとすれば、それはまさに、他人が評したヘーゲルの像に従ってヘーゲルを理解しているということになる。
確かに、自身が十分な判断ができない事象について、他人から「XXは**だ」と言われた場合、それをそういうものだとして受け止めてしまうことが多くある。さらに問題なのは、そのような不完全な理解を、不完全な理解として認識していないことだろう。ほとんど無意識のうちに、そのような不完全な理解が知識として入力されてしまう。
十分に理解したわけではない認識まで理解したもの(納得したもの)として受容してしまうことがあるというのは、脳の活動にも関係しているのだろうか。

投稿者 vespro : 20:41 | コメント (0)

繋がり

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昔、どこかで「ヘーゲルは自分自身を小屋の中に置いて、外側からこの世界について考察していた」みたいな文章を読んだことがある。
頭の中だけで世界を分かったつもりになっているようで、その時も不思議に感じたし、今でははっきりと嫌悪感を感じる。

頭の中で考えたければ考えればいい。
それはあなたが頭の中で考えたということを証するだけのことであって、考えた内容そのものが世界ではないのだ。

投稿者 vespro : 20:39 | コメント (0)